月のない夜

 眠れない。
 設備や対応からすればこの学園はとても恵まれていると言えた。謳い文句としては大きく間違ってもいない。辺境の子供たちはまともに読み書きすらできないという中で、ここにいれば確かに高い水準の教育を受けることができた。孤児院にいた頃の記憶と比べても決して不幸とはいえないはずだ。田舎にいれば寝苦しいはずの夏の夜も、魔法でこうして適度な温度に保たれているというのに。
 それでも彼は、不快な寝汗をかきながらはっと目を開いた。眠れないつもりでいて、眠っていたのだろう。だがそれはいつも浅いままに現実世界へと引き戻される。夢の中で見るか記憶の中に思うか、ただそれだけの違いであって現実的にいえばそれはきっと大差ない。瞼の内側にはいつだって相棒だったはずの男の顔が浮かんだ。
 相棒。
 静かに首を捻って見ても、傍らに置かれたベッドの輪郭に人の姿はない。同じ部屋を分け与えられてからずっと、そうだ、もう十年以上生活を共にしてきた兄弟のような存在だった。それが今、部屋には自分以外の誰もいない。呼びかけたところで答えなど期待できない。追いやったのは、自分だった。
 学園の実体を知らされた時のことは、あまりよく覚えていない。だがきっと、ショックではあったのだろう。当たり前だ。お前たちはこれから永久に我々によって暗殺者として鍛えられるのだ。そう言われたのは都会の町に出ても支障がない程度の読み書きや計算を覚えて後のことだった。怯えて逃げ出した同期生たちは戻らなかった。彼らがどうなったのか、訊かずとも知れた。
 共にこの手を汚したのに。
 暗闇に慣れてきた目で、広げた両手を茫然と見つめる。この手で、殺したのだ。あの女を。困ったことがあればいつでも来いと、そう言って笑ってみせた彼女をこの手で。どれだけ拭っても、どれだけ洗い落としても。血に汚れたこの手は決して元には戻らない。
 卒業生を羨む生徒もいたが、それはまだ任務を受けたことのない子供の言葉だ。人を殺して背負った罪はどうしたって振り払えるものではない。そんな人間がこの学園を出たところでどうやって人並みの生活ができよう?この枠組みに嵌められているからこそこれからも何とか生きていけるのだというのに。任務を受けたことのある生徒にとって、『卒業』という言葉は脅威以外の何物でもなかった。
 そして彼らを追い立て、放り出したのは紛れもなくこの自分自身だ。
 二度目の任務は、暗殺任務ではなかった。ただあの四人の名前と所属が記された一枚の紙を担当の教諭から受け取ったのだ。
「……フォース先生、これは」
「言わなければ分からんか」
 男は彼を見なかった。冷ややかな眼だ。それを傍らの窓からさり気なく外に向けている。微かに吹き込んできた湿っぽい風が男の伸ばした髪を後ろへと揺らした。
 もう一度その紙に視線を落とし、そして唐突に悟る。ぱっと目を開いて担当教諭を見た。
「先生、まさか……」
「週末でいい」
 遮るようにして、男は言った。周囲にさっと視線を巡らせ誰もいないことを確認してから低く、続ける。
「お前に隊のリーダーを任せる。"対象"に気取られるな。いいか、確認するだけでいい」
 紙を握る手が、僅かに震えた。悟られないようにとその右手をポケットに突っ込み、細めた視界で再び男を見上げる。男はこちらを見ていたが、その瞳の色からは何の感情も読み取れない。あいつを引き取ってきたのは、先生、あなただったはずなのに。
「……もしも」
 彼は目線を下げ、当てもなく男の右腕を見た。袖に覆われたそこは先日"魔"の生徒がしくじったという対象を過去にまで遡って始末しに行った際に負傷したという噂を聞いたが、真偽の程は分からない。傷を負っていようがそんなものはこうして見るばかりでは分かるはずもないのだから。
「もしも……奴らが、我々に敗れれば」
 担当教諭の言葉は、あくまで澱ないものだった。
「校則の通りだ」
 言わねばならない気がした。瞼を伏せたまま、声を落として囁く。
「……四十一条」
「そうだ」
 もはや男の声にはどこか気だるげなものが感じられた。話はここで打ち切りだと、告げる。坦々とした、言葉だった。
「気取られるな」
 そして無駄のない動きで踵を返し、音もなく去っていく。廊下の向こうに消えてしまうまで、彼はその後ろ姿から目を逸らすことができなかった。ポケットの中で握り締めた紙片は、すっかり汗を吸い込んで気持ち悪く湿っている。溜め込んでいた息を長く、静かに吐き出して、彼はようやく下を向いた。爪先までも、微かに震えているのは気のせいだろうか。
(こんな……)
 こんなことを。
 それでも俺は、生きたかったんだ。
 それなのに一体、どうしてこんなことになってしまったのか。

「分かっていたはずだ」
 男の声が、追ってきた。月のない夜、見えない瞼を袖で乱暴に擦り付けながらただひたすらに走る。自然と涙は出なかった。自分が死ぬということが分かっていればかえってそんなものは流れたりしないらしい。殺した女の顔を思い出そうとした。だが、彼女があの時泣いていたのかはどうしても分からない。
 いやひょっとして、自分は本当は泣いていたのかもしれない。それすらももう曖昧で、意味のないものになる。覚悟を決めたはずの彼は足を止めることも振り向いて杖を掲げることもできずにただひたすらに走っていた。このしぶとさがあれば生き残ることができるかもしれないと言ってみたところでジョークにもならない。俺はもう、死ぬんだ。
「"魔導暗殺課"七十九期生マインド・マーシャ」
 声は、息を吹きかけられる程に耳のすぐそばで聞こえた。嘘だ。硬直しきった身体は足を縺れさせて勢いよく斜めに転倒する。掴んでいればただそれだけで生き残れるかのように強く握り締めたはずの杖はいつの間にか手のひらを離れて暗闇の中を飛んでいった。探さねばとがむしゃらに伸ばした手を、厚く硬い靴底で無慈悲に踏み付けられて思わず声をあげる。鈍い痛みと、夜露に濡れた地面の冷たさと。泥を噛んで顔を顰めたが、そんなものは自らの死を思えば大したことではない。
「分かっていたはずだ。我々が逃亡者を逃すはずがないと」
 彼は唾を吐きながら血の滲む唇を開いたが、自分が何を言おうとしたのか分からずただ呻くだけにとどまった。男の靴底が、さらにきつく彼の皮膚を沈ませていく。感覚を失うとはきっとこういったことなのだろう。苦痛は次第に麻痺していく。この調子でいけば死ぬこともそう辛くはないのかもしれないと、幻想する。
 殺したはずの女の顔を、どうしても思い出せない。
「自分はどうして奴らと同じように卒業させて貰えなかったのかと、恨んでいるのか」
 男が、手の甲を踏み付けたまま倒れ込んだ彼の髪を強く引き上げた。新たな痛みに歯を食い縛るも、その隙間から漏れ出た息ばかりは抑えられない。恨む?恨むだと。一体、誰を、……。
 もしも恨みを抱くことがあるとすれば。それはきっとただ、この運命の巡り合わせだけだろう。何を恨めばいい。何を憎めばいい。彼女を殺したのも、あいつらを追放したのも、全て自分のこの手が犯した罪だ。何を恨めばいいというのか。
 ただ、羨望の思いばかりはどうしたところで隠し切れまい。
(ロゼ、お前は……)
 ヘレン、お前もだ。
 その手で人を殺した限り、あの学園の枠外で生きていくことはきっと自分たちには想像もできないほど困難なことだろう。だがそれでも、彼らを羨んでやまないことがあるとすればそれは。
(お前らは、独りじゃないんだ)
 ただそれだけが、唯一の。
「さらばだ、マインド」
 月はないはずだ。それなのに閃いたそれは、一体何の光を受けて輝いたのだろうと考えた頃にはきっともう、俺はこの世の人間ではない。
 人間は決して生まれ変わりはしないと、先の偉大な魔導士たちは言った。きっとその通りなのだろうと思う。何しろ彼らは実験したのだから、その結果に誤りはあるまい。
 だがそれでも、俺は。
 生まれ変わることがあればその時はきっと、あの学び舎ではなくただこの蒼い空の下でお前ともう一度出逢えることを願ってしまう。

(06.08.26)

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